本能寺の変とは何か?簡単にわかりやすく!謎や真実にせまる!

本能寺の変は、歴史の大きな謎です。

いったい、なぜ本能寺の変が起きたのか、明智光秀はその後どうなったのかを、簡単にまとめました。

教科書では聞いたことある言葉ですが、詳しく見ると、これは裏切りドラマのようなお話でした。

本能寺の変とは?簡単に言うとクーデーター?

本能寺の変とは1582年6月21日の早朝、本能寺で起きた政治的な変革です。

当時天下だった織田信長が、家臣であった明智光秀のクーデターにより本能寺にいるところを襲われ、織田信長が自害するという事件が起きました。

一言でいうと、信頼していた部下の裏切りにあったということです。

なぜ裏切りにあった?

歴史的な事実は別として、織田信長の性格はきつかったようです。

「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」

つまり、自分の言うことを聞かないやつは処分してしまえと言うことです。

そんな性格だったので、家臣に裏切られたということでしょうか。

裏切った明智光秀ってどんな人?なぜ信長を裏切った?

実は、明智光秀はなぞの人!生まれた年、場所、両親などが明らかになっていません。

そして、明智光秀が織田信長を裏切った動機も謎です。ただし、大まかに言って次の4つの理由が考えられています。

1天下統一の野望

これは、明智光秀も天下を取りたいという動機で信長を討ったという説です。これは戦国時代にはありそうな動機です。

2突発説

上の事例の反対の説ですが、もし明智光秀が天下統一を野望として持っていたなら、その後の行動が理解できないので、計画というより突発的に行ったという理由です。

3信長への恨み説

信長に恨みがあったから、討ったという説です。歴史的な事実はわかりませんが、信長の性格なら恨まれても仕方ないような気がします。

4朝廷の黒幕説

黒幕説は、明智光秀の単独行動ではなく、実は幕府と隠密に連絡を取り信長が居ると都合が悪かったのではないかという説があります。

明智光秀はどのように本能寺を襲った?

明智光秀はギリギリまで、家臣たちに信長を討つことは秘密にしました。

そして、6月4日午前4時頃、13000の兵で、本能寺を囲みました。

成功しやすい夜明けを狙ったと考えられています。

全軍が揃ったところで、一斉に本能寺に突入しました。

信長ははじめ、けんかでも始まったのかと思ったそうですが、すぐに明智光秀が襲ってきたことを知りました。

そして、弓で戦おうと思ったら、弓が切れて、槍で戦おうとしました。だけど、敵の槍で肘に怪我を負い、これ以上の防戦は無理と判断し、奥の間で切腹したと言われています。

信長の亡骸は燃えさって完全になくなってしまたのか、明智光秀は見つけることができませんでした。

あっけなく倒された明智光秀

織田信長を倒した、わずか10日程度で、明智光秀は自分の味方にしようと努力するも虚しく、豊臣秀吉に狙われてしまいます。

明智光秀の最後は、百姓によって狙われ、怪我をしたため自害しました。その首は、本能寺にさらされたと言われています。

なんか、終わりは織田信長と同じような感じがしますね。

本能寺はどこに?今でもあるの?

当時の本能寺は、現在はありません。今では堀川高校やホームとなっています。

石碑だけが残ります。

時代が流れなんで仕方ないですね。

だけど、なぜ信長が寺に居たのか気になりませんか?

実は、当時の本能寺は堀にかこまれ、かなり大きくて、まるでお城のようなお寺だったと言われています。

そして、6月1日はここで茶会を開いていたと言われています。

住所 〒602-0947 京都府京都市中京区元本能寺南町

電車だと最寄り駅は阪急の大宮や地下鉄の烏丸になります。

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